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開館時間

AM9:00~PM5:00
(入館受付PM4:30まで)

休館日

12月29日から1月3日まで

観覧料(個人)

一般360円、
小・中・高校生200円

観覧料(団体)10人以上

一般260円、
小・中・高校生100円

長崎市遠藤周作文学館

〒851-2327
長崎県長崎市東出津町77番地


TEL:0959-37-6011
FAX:0959-25-1443

email:endoshusaku_seitan100

@city.nagasaki.lg.jp

遠藤周作を偲ぶ一日

遠藤周作を偲ぶ一日(H27.10.17)
 対談「遠藤周作と聖(きよ)き人びと―母・郁から吉満義彦、原民喜、井上洋治まで―」



 平成27年10月17日(土)、第一部はネイティブアメリカンフルート奏者のマーク アキクサ氏によるオープニングコンサート、第二部は「三田文学」編集長の若松英輔氏とノートルダム清心女子大学教授の山根道公氏による対談という二部構成で「遠藤周作を偲ぶ一日」を開催しました。
 ネイティブアメリカンフルートとは、その名の通りネイティブアメリカン(アメリカ先住民)の縦笛であり、求愛の際に用いられることから別名を「ラブ・フルート」と呼びます。コンサートでは、アキクサ氏から先住民の歴史や曲に対するご自身の思いなども聴くことができました。その中から、チェロキー族が第二の国歌として大切にする「アメイジング・グレイス」をご紹介します。アキクサ氏によれば、この曲は、彼らがインディアン居留地へ強制移住させられたときに歌われた曲だそうです。彼らは、敵である白人の歌でありながらこの曲の中に苦難を乗り越える力を見出し、自分たちの歌として取り入れたと言います。アキクサ氏は「この歴史は、東日本大震災によって土地を離れることを余儀なくされた人たちと重なる。僕はこの曲を単なる有名な、きれいな曲というだけでなく、苦しみや悲しみを乗り越える曲として演奏している」と静かに話されました。さらに嬉しいプレゼントがありました。なんとアキクサ氏が「沈黙」を作曲してきてくださっていたのです。〈トモギ村〉のモデルとなった外海の海に鎮魂の音色が響き渡り、それはまるで会場を「沈黙」の世界へ誘うようで、息をするのも躊躇われるようなひと時でした。
 一部からの余韻冷めやらぬまま、続く対談では「遠藤周作と聖(きよ)き人びと―母・郁から吉満義彦、原民喜、井上洋治まで―」と題し、この4名が遠藤の人生と文学に与えた影響についてお話いただきました。
 最初に、題の「聖き人びと」について若松氏は「この世の中は聖なるものだということをどんな手段であれ教えてくれた人」と述べ、山根氏は『私が・棄てた・女』の森田ミツなどを挙げながら遠藤にとっての聖人の定義をご説明されました。
 まず、山根氏は遠藤をキリスト教へと導いた母・郁の存在を挙げられました。「母のおかげで、ぐうたらな僕は、より高い世界の存在せねばならぬことを魂の奥に吹き込まれた」(「影法師」)等の作品に触れながら、聖なるものを意識するからこそ一方の自身の醜さや弱さを知ることができ、弱者への眼差しという遠藤文学の大きなテーマの一つになっていったとお話されました。
 哲学者・吉満義彦は、遠藤が慶應義塾大学在学中に入っていた寮の舎監で、遠藤に堀辰雄を紹介した人物。平成27年は吉満没後70年ということもあり、『吉満義彦 詩と天使の形而上学』を執筆された若松氏から、吉満と遠藤についてお話いただきました。吉満が、当時哲学者・批評家志望だった遠藤に文学を薦めたことについて若松氏は、「哲学的素養を持っている人が文学に進み才能を開花させたこと、批評家になれる素養を持った人が小説を書いたということに大きな意味がある」と、遠藤と吉満との決定的な出会いについて語られました。
 さらに、この後も決定的な出会いは続きます。そこで挙げられたのが、先輩作家の原民喜と神父の井上洋治です。
 原は遠藤のフランス留学中に鉄道自殺。大学に残ることも考えていた遠藤がフランス留学を機に、作家へと転向したことについて若松氏は「原のバトンを受け継ぎ、原が語り得たであろうことを小説で語っていくという思いがあったのでは」と指摘。「帰国後に書かれた「アデンまで」が最初の小説とされているが、遠藤は留学中に書いた「フォンスの井戸」を自身の処女小説として挙げており、これは原が亡くなった時に書かれている。原の自殺は遠藤が小説家となった大きな要因の一つだろう」と山根氏も同じ見解を述べられました。
 遠藤と同じ船でフランスへ渡った井上は帰国後、遠藤と、日本におけるキリスト教の踏石になろうと語り合った仲であり、遠藤は『沈黙』を、井上は『日本とイエスの顔』を執筆しました。遠藤と井上は、文学と神学というそれぞれの立場から、「日本人とキリスト教」というテーマを抱え、支え合った〝戦友〟であったことが、実際に井上氏と活動を共にしてこられた両氏から語られました。
 最後に、平成28年には遠藤周作没後20年を迎えることに触れ、若松氏は「遠藤の本を読んで感じたことをノートに書いてほしい。そういう営みが始まることで遠藤文学が本当によみがえる」と遠藤文学を担う読者への希望を語られました。また、「文学館がこの場所に建てられたのは、海や夕陽を眺めながら人生のことを感じてほしいという順子夫人の思いが込められているから。遠藤は夕陽を見ながら亡くなった人たちの声を聴くということを書いている、ここは遠藤や皆さんにとっての大切な人たちを偲ぶのにふさわしい場所である」と山根氏。その言葉を受け、会の後は多くの方が角力灘に沈む美しい夕陽をテラスから眺めておられました。
 遠藤と4人との決定的な出会いを、印象的な言葉で紡がれる若松氏の批評と、遠藤文学を深く読み込まれた山根氏の解説と共に考えることで、改めて遠藤の人生と文学を見直す機会となりました。演奏も対談も、遠藤先生はきっと天国で楽しんで聴いておられたことでしょう。部屋の後ろの壁に掛けられた遠藤先生の写真のお顔がいつもよりも笑っているように見えました。